わかってないな、コイツ。という前提で読んでください。
今テレビの目の前、海の向こうで起きていること。
ニュースで言っていることだけでは、真実がわからない。
チベットは中国の一部だってことは知ってるよね。
えっ、知らなかった?
では、そもそもの前提をこちらで。
【超入門 チベット問題】これが一番簡単に理解できるでしょう。
http://www.tibet.to/mondai/index.htm
【Wiki チベット】
http://ja.wikipedia.org/wiki/チベット
【現在のチベットの状況】ダライ・ラマ法王日本代表部事務所によるもの
http://www.tibethouse.jp/situation/index.html
さて、毛沢東時代に中国の侵略により
いまの自治区統治が始まったわけですが
当然反発は続いており、開放運動と鎮圧の歴史が繰り返されているようだ。
今回報道されているのも、僧侶がデモ行進をしているところに
中国政府の武装警察が暴力で鎮圧。
聖職者に対する暴力、これが市民の感情を逆なで
パニックに陥ってしまったようです。
北京五輪の聖火リレーのコースに
チベット仏教の聖地チョモランマを走るという話、
これが騒動の発端とも言われているし
アメリカが後ろで操っているといわれているし。
ビルマ、ミャンマー問題もそうだし
南北朝鮮の問題等々。
モンゴルも一部は中国として統治されているし。
民族問題と国家という枠組みは、永遠の課題なのでしょうか。
「何が起きているんだ!」と思っている時に
中国政府がダライ・ラマ派との「人民戦争」を宣言してしまった。
直接、僕らの目の前で起こっているわけでもなければ
明日の生活に影響するわけでもないかもしれない。
ただ、僕は見過ごせなくなって来ているだけで
ブログにツラツラと事実と感想を並べてるだけなんだと思う。
それで、少しでも誰かが考えるきっかけを持って
それが、今後生きていく中で判断をしていく基準を作っていければ
いいんだと思う。
でも、本当にこれから起こっていくことを
見守っていくだけでいいのだろうか。
わからない、嘆くだけでは何も変わらない。。。
実のところ、ミャンマーについては
中国だということ
チョモランマがあるということ
牧畜が盛んだったということ
ダライラマは結局インドにいるっていうこと
それ以上もそれ以下も知らない。
でも、今起こっていることについては
知っておかねばならない、自分の考えを持っておく為の
知識は得ておきたい、そう思うのでした。
もう少し勉強してみます。
【日記の最新記事】




けど、真実は分からないね、なぜあぁいうカタチになるのか。。。
けど、ヒトが起こしていることには違いなく、起こしてしまうにはヒトのとある″lえ方が自らを突き動かしてしまうんだよね。とある考え≠ネんて、どうにでもなるような気がする。だったら、そっちの方向に動かさなくたっていいのにね。
突き動かしている本人にも、突き動かされてる人にも結果のカタチとしてHAPPYは無いことになるのは明白なんだけどね。
ぼくもよく分からないけど。
悪い結果には悪い原因があり、
良い結果には良い原因がある。
この道理は疑いようがないんだと思うんだけどなぁ。。。
>悪い結果には悪い原因があり、
>良い結果には良い原因がある。
おっしゃるとおりですね。
既に悪い結果が起こり
更に悪い結果に向かって突き進んでいる。
突き動かされている本人たちには
止められない(と思い込んでしまう)「何か」が働いていますね。
これをおおもとまでさかのぼって
現状を変えるのは困難ですが、
今の状態から良い方向になるための策は
無いものでしょうか。
おおもとの原因に何があり、どう取り除くのか。。。
双方の「良い結果」がそれぞれ異なるので、
それぞれが歩み寄る余地を作らねばならないのでしょう。
国際社会もそれぞれ異なる見解を出していたり、
それぞれの思惑が働いてより複雑にしているようですし。
そんな中、500人以上が死亡という情報が入ってきました。
http://www.indiadaily.com/editorial/19252.asp
このまま被害が拡大していくのでしょうか。
02年に田中邦彦氏により作成された2時間のドキュメンタリー映画です。
中国共産党政府により統治されたチベットでは、様々な形による「圧政」が続いている。
インド北部で難民生活をしている人達も今は「3世代目」。いまだ見ぬ真の故郷チベットへの思いは衰えをしらない。チベット解放への切なる願いを込めた「平和行進」が始まろうとしている。
というような内容でしたが、祖国を奪われた人達の気持ちは計り知れないものがあるのではないでしょうか。
正確な情報が伝わらない現状で、これ以上の犠牲者だけはと思うばかりです。
たまにふと想像します。
…今から300年、500年後に人類が存続していたとしたら
「いやー、昔の人は、
産まれながらに”国家”や”国民”というものに縛られて生活していたんだね」
という会話がなされるんじゃないかなと。
それはちょうど今の人類が過去を振り返って、
「いやー、過去の人類は産まれながらに
身分に縛られることがしばしばあったんだね
(そうでない地域や時代も多々ありましたが)」と思うように。
自然科学の進歩というのは実感しやすいけれど、
社会科学がどれだけ変化してきているかは意外と意識されないですよね。
そもそも「国民」や「国家」という概念が人類に根付きだしたのは
そんなに古い昔のことではないわけで。
(せいぜい17世紀くらいからだと思います)。
今、この時代にリアルタイムに生きていると
「一民族が単一国家を持つことが本質的でありナチュラル」
という既成概念を大前提として考えてしまうけれども、
どうもこれだって、人類の社会科学の進歩の一過程で起こっている
「感覚」に過ぎないのだろうと感じるのです。
それはちょうど、かつての人類が無条件に
「神」を信じ込んだり、「身分」を信じ込んでいたりするのと同じで。
で、だからこのチベットの問題がどうだ?
と聞かれれば答えに窮するのですが、
多くの血が流れた後に人間が大きな方向で悟っていくのは、
支配する、独立するという2言論ではないところのような気がします。
(17世紀から民族&宗教の問題で多くの血を流してきた西側の欧州は
その答えに少しだけ早く到達しつつあるわけですし)
日本でぬくぬく暮らす私が不謹慎ではありますが、
”力のない側が、したたかに工夫する”
これがひとつの答えなのではないかと。
そうした時に、
「祖国がなくてはいけない」とか
「民族として支配から脱却する」という意識が、
本当に今の時点で力の弱いものを幸せに導くのか、
もしくは、人間のアイデンティティや本質に”民族”とういものがどこまで本質的なシンボルなのか、
などの議論が関わってくると思います。
コメントありがとうございます。
大きな考え方としては賛同できるし
そうあるのが理想だよな、って。
それこそ「感覚的に」理解できます。
もちろん、
細かいところに突っ込み入れたくもなりましたがw。
国民、国家という単位で語ってくれましたが
「個」人という単位で考えても、
>”力のない側が、したたかに工夫する”
この考え方はしっくりくるものですよね。
隣人との付き合い方、力あるものとの接し方。
どのカテゴリーに所属するかで変わる立場、力関係。
愛するものや、信じるものがあることにより救われる日々の精神状態。。。
結局、自分の知っていることでしか考えられないし語れないわけで、そこで工夫するしか無いわけです。
だからといって、必ずわかり合えるわけでもなく。
「バカの壁」は、民族や国家という単位にも、個人にも当てはまるわけで。
ひょっとしたら、個人という単位自体が「バカの壁」である可能性もある、と思っていた方がいいのかもしれません。細胞単位、分子、原子レベルなのか??
と、やっぱりしたり顔で書き込んでしまう自分も
ぬくぬくと日本で過ごす、不謹慎野郎かもしれません。
そうは言っても
本日も、生きてるだけでまるもうけ でございます。